「可哀想なのは誰?」
2014.10.30
上の絵を描いたのは、私の母の母…私の祖母と話をした後描いたものです。その日、私は仕事を休みカウンセリングを受け、祖父母の家へ向かいました。
祖父母の家に一人で行ったのは、これが初めてかも知れません。
母と二人、もしくは母と兄と三人で行くことはありました。一人では「行ってはいけない」…そんな思いがありました。モラハラの記事で触れたように、家で起こったことを誰かに話すことはこれまでありませんでした。
私にとって「禁止事項」の一つでしたから。
しかし、その日の私は
"何もかもバラしてやる"
"母がどんな仕打ちを受けて来たのか、全部話してやる!"
そんな思いがありました。それまで私は、母に対して "可哀想な人" というイメージを持っていました。
父からどんなにdisられても…馬鹿にされ罵声を浴びせられ罪や責任を押し付けられても、母は祖父母や周りに助けを求めることが出来ない弱い人なんだと…そう思っていました。
母という立場や世間の目を気にして我慢することしか出来ない人なんだ。
私はそう、「勘違い」をしていました。
一人で来た私を見て、祖父母はとても喜んで迎え入れてくれました。
「どうしたとね?」
そう言われ、すぐに私はポロポロ涙を流しました。
父に対しての文句を祖母に話しました。
そして、祖母に助けを求めることが出来なかった母が可哀想だと話しました。
祖母の口から出た言葉に、私は固まりました。
「しっとったよ。」
(知っていたよ。)
「自分の子やけんね、顔見たら分かると。」
(自分の子だからね、顔を見たら分かるの。)
祖母は察していました。
だいたい知っていました。そしてそれは祖父も同じだと。
祖父は私の父とは正反対の雰囲気を持っています。
優しくて、面白くて、人から好かれます。「器が大きい」という言葉で私が思い出すのは祖父の姿です。
私は祖父から怒られたことはありません。
その日、祖父は少し離れた場所で、小さな魚達が泳ぐ水槽を楽しそうに眺めていました。
祖父は
「ちょっと行ってくる…!」
娘…私の母を想い、家を飛び出そうとした事があったそう。止めたのは祖母でした。
「あんた、やめとかんね!」
(あなた、止めておきなさい!)
その時の祖父母の光景が、目に浮かびました。
お嫁に行った娘を心配する、親の姿です。
その時私が感じたのは、
祖母と母にある
「夫を立てる」
「三歩下がって歩く」
という、古くから日本にある女性の美しさと強さというもの。
"堪え忍ぶ"
自分にはない美意識でした。
それはとても美しく、凛としていて、女性の「強さ」を感じます。
それまでの私、とりわけペインターの感じていた「か弱い女性像」がひっくり返された気分でした。
先の絵の端に、私はこんなことを書いています。
"おばあちゃんと話をした。おばあちゃんは気付いてた。知っていた。私はずっと母のことをかわいそうな人だと思っていた。けれど、母はおばあちゃんから愛されている。"
この絵を心理士さんに見せ、私はこう言いました。
「良かった!母は可哀想な人じゃなかった!」
すると心理士さんは
「ちょっと待って!」
「…じゃあ、本当に可哀想な人は誰?」
私はその瞬間、号泣しました。
母が子供の私によく言っていたのは、
"私は大丈夫だから、気にしないで"
"私は大丈夫だから、お願いだからお父さんの機嫌を損ねることはしないで"
「大丈夫」ではなかったのは、子供の私でした。
我慢出来なかったのは、子供の私でした。
childにもピエロにもペインターにも
フラワーやドリーマーにも、母の持つ強さはありません。
もちろん、大人の私にも。
可哀想なのは母ではなく、
子供時代の私、
大人になった私、
母の子である私だったのだと、この時理解しました。
家庭内のモラハラのターゲットは、
最愛のパートナーかも知れません。
しかしそのモラハラの攻撃を、ターゲットを通り抜けて受けてしまうのは、
両者の間にいる、子供。
子供の心です。