他人の争いに恐怖を感じるAC
2015.7.30
日常生活で…とりわけ職場で私が「生きづらい」と感じることは、他人の争いについてです。
子供の頃は学校で、友達同士が対立している時に感じていました。
争いを目撃した、
目の前で争いが始まった、
そうなると私はパニックになってしまいます。
おそらく子供時代の「戦争」を重ねてしまうのでしょう。大人だというのに、ちょっとした言い争いでも、怖くて仕方ありません。
そして外の世界の争いでは、私はしばしば「板挾み」になってしまいます。両者の悪口の聞き役にやってしまうのです。家では一方的に父が母を責める構図だったので、板挾みというよりは、裁判官のような立場でしょうか。両者の意見を理解して、なんとか和解してくれないかと動いていました。
なぜ両者は私に相手のことを話すのか、
なぜ私なのか、それは
「それぞれと親しい」からでしょう。
"せっかく一緒に働くんなら、楽しくしたい"
その想いが強く、最初に嫌な事をされない限り、自然と人の "長所" に目がいっている気がします。一度でも親切にしてもらえたら、どうにも忘れることが出来ない感動が、記憶として残ります。
悪口を言わない…というより、言えないことも大きいでしょう。家では父が毎日誰かの悪口を言いますから、もう悪口は聞きたくないし自分だって言いたくない。悪口を聞く際のマイナスな部分は自分がよく理解していましたから。
しかし、普段悪口を言わない人というのは、
"きっと懐が広いのだろう。口も堅いだろう。自分の話も聞いてくれるだろう。"
そう判断されるのかも知れません。
(そんなことないのに…)
一方が一方の悪口を言う…それをこっそり聞くというのは、非常に辛いです。話し終えた後、聞いたことを整理する間も無く両者と共に仕事です。
これが、一方だけならどんなにマシかと思います。一方…半分でいいですから。。
ここからは、私がアダルトチルドレンであるが故のことです。
両者の話を聞いてしまうと、私は自分の育った家庭のことを思い出し、「解決策」「和解案」を "どうしても" 探そうとしてしまうのです。必死に探します。
そんなことする必要はないのに。
ただ話を聞くだけで終わりでいいのに。
これが大人の私の抱えている「生きづらさ」の中の一つです。
"どうすればいいのか…"
毎回思います。どうもしなくていい、…そう理解してるはずなのに、あれやこれやと考えてしまいます。そんな私の状態を、おそらく両者は知り得ないでしょう。仕事を終えた頃には体よりも心がまいってる状態です。
そして、まさに本日のことですが、
和解案が見つからなかった私がした解決策は、
"自分が悪者になること"
ピリピリムードがついに耐えられなくなり、
自分を守るために私がしたことは、
自分が犠牲になることでした。
矛盾していますよね。自分でもそう思います。
仕事中、さほど気になった訳ではないことについて、強く意見しました。あからさまに不機嫌な姿を見せました。普段の私ならありえない姿だったでしょう。しかし、両者はそれぞれが悪口を言っていた相手から、私に意識がシフトしたような印象を受けました。…私の勘違いかも知れませんが。
私はというと、…ボロボロです。
ですが必死に探して出た答えが、コレだったんです。
心理士さんからも、《ある人物》からも言われる私の癖は
"自分のせいにする"
"自分を犠牲にする"
ということ。
この癖を止められない理由は、自分でもわかっています。
「楽だから」です。
親しい人達が争う光景を見続けることより、
ずっと楽だからです。
しかし、楽だからといって、自分が何も影響を受けていない訳がないんですよね。胃が痛くて仕方ない…のは毎度のことですが、
なんとも言えない疲労感があります。
同じく、なんとも言えない達成感のようなものもあります。
本日はしっかりと…
休まなくてはいけませんね。