人と親密な関係を築く難しさ
2015.10.23
初めてお会いする人に対して、緊張してしまうという方は多いのかも知れません。
受験や採用試験の面接などで緊張してしまう方も多いでしょう。
この記事ではACというよりも、私個人の "人とのコミュニケーション" に対する問題について、書いていきたいと思います。
アダルトチルドレンは、人と親密な関係を築きにくいと書かれることがあります。
私自身もそうです。
これについて自分なりに考えてみました。
私は会話するのが苦手なのですが、不思議な点があります。
私は「初対面」では自分でも驚く程、明るく気さくに話すことが出来ます。冒頭に書いた受験や採用試験の面接なども、どちらかと言うと緊張せずに臨めます。むしろ、わくわくしたエキサイティングな気持ちさえあるのです。
【ドリーマー】…東京で生活していた私は、子供服の販売員として昼間働いていました。
販売員というと、お客さんやスタッフとのコミュニケーションは必須ですよね。
しかし、とても楽しかった…というのが正直な感想です。
池袋にあるそのお店は、毎日多くのお客さんが来店されます。常連の方もいらっしゃいますが、私はいつも「はじめまして」という心持ちで接客をしていました。そして子供服のお店というのは、婦人服のお店とは違い、何かを購入することを決めて来店される方が多いのです。お友達や知り合いの方のお子さん、お孫さんにお洋服をプレゼントしたい、…そういったお客さんが非常に多かったです。
販売員の私がすることは、お客さんの要望に合わせた商品を提案すること。相談に乗ることでした。
「売る」というよりも、どんなものを選べばいいのか、その相談にのるような接客がほとんどでした。
楽しかったのはおそらく、"聞き役" に徹する仕事だったからかも知れません。そして聞き役に徹した結果、お客さんは笑顔で商品を購入されます。
お客さんが何を欲しがっているのか、何をして欲しいのか、そういったものを考えることは、あまり難しく感じたことはありません。
子供の頃から親や周囲の人に対して自分がやってきたことでしたから。
そして「はじめまして」というシチュエーションというのは、いくらでも話す "ネタ=材料" があります。
いくらでも質問出来る材料があるのです。
私のコミュニケーションの問題点は、常に
"形式的な会話"
をしている点でしょう。
"はじめまして〇〇です"
そう言えば相手も名前を教えてくれます。
"本日はどこからいらっしゃいましたか?"
そう言えば相手はどこから来たのか教えてくれます。遠方からであれば私は「遠いところからありがとうございます」と言うでしょう。
初対面というのは、私は割と何でも質問することが出来ます。なぜなら、初対面だからです。お互い相手のことを何も知らないので、よほど礼儀を欠いたことを言わなければ質問に答えてくれるような気がします。
そして、こう言えばこう答えてくれるだろう…そういった予想も立てやすく、反対にどんなに予想外の答えが返って来たとしても初対面なので、気になりません。
しかし、相手が答えてくれる内容を予想して話す…というのは、コミュニケーションとして不自然なのだと、自分でも感じます。
自分が集中している時に話しかけられる…これが私は非常に苦手です。
「まさか話しかけられるなんて!」
その驚きがまず先に生まれます。
【ゴースト(ピエロ)】…中学時代に家の中で幽霊のように過ごしたからでしょう。自分なんかに話しかける人なんている訳がない。そのネガティヴなのか根暗なのかわかりませんが、自分を閉ざしてしまっている時が今の私にもあります。
雑談、というのも苦手ですね。
自分に誰かが話しかける時というのは、何かして欲しいことがあったり連絡があったり怒られる時だったり…自分に何か用事がある時だけだと、信じ込んでしまっている面があります。
家の中で母と雑談をすることはあっても、父とすることはありませんでした。
父は自分のことだけ話します。
"人に何かをしてやった"
…例えば部下を叱った話。
"俺はすごい"
…人より優れている点を自分で話します。
そして
"どうせ俺なんか"
…長っ鼻を折られたり仕事が上手くいかない時などは必ず口にします。
父との「会話」では、私は決まって「聞き役」であり、観衆であり慰め役になりました。
しかし父の口から
「話を聞いてくれてありがとう」
お客さんが私にくれた言葉を受け取ったことは一度もありません。
人と親密な関係を築く難しさ、それについて私が悩んでしまうのは、職場ですね。
周囲の方は時間が経つにつれ、周りの方とどんどん信頼関係を築いているように感じます。
親しくなり笑ったり喜んだり、時に言い争ったり、時にお互い相談し合っています。
しかし私はどんどん難しくなります。
初対面はもう遠い過去になり、どのように会話をしていいのか分からなくなってしまうのです。
初対面では質問出来たことさえ、付き合いが長くなると難しくなります。相談に乗ることはあっても、自分からは相談出来ません。
会話のキャッチボール、とよく言いますよね。
実際のキャッチボールを想像すると、受ける側はグローブを構えます。時に予想外の方向へボールが投げられることもあるでしょう。キャッチボールですから、それは不思議なことではありません。
しかし、私は相手のボールを予想し過ぎてしまうのです。
会話で言うならばどんな表情で、仕草で、どんな言葉を使うのか、そういったことまで予想する「癖」がついているように思います。
付き合いが長くなればなるほど、その予想はより具体的にイメージしてしまいます。
これが私のコミュニケーションの問題点でしょう。
相手が次に何を言うのか予想してしまうため、その次に自分が何を言うのか、その答えを用意してしまっているのです。
相手が予想外の返答をすると、私は自分が用意していた答え=返答を使えなくなります。
何を言ったらいいのかわからなくなり、
「あっ…」
「えっと…」
そういったことが咄嗟に出てしまいます。
これに出てくるキャラクター "カオナシ" のようです。
都市伝説レベルですが世の中には、カオナシと言うのは相手に合わせてしまう日本人をイメージしたのではないか?、という考察があります。
私もカオナシを初めて観た時は、自分のようだと感じたものです。
父が帰宅すると、父が玄関に入った瞬間から私の予想のイメージは始まります。
ドアをどんな風に開けたのか、
母の「おかえりなさい」に返事をしたのか、
声のトーン、表情、バックの置き方、
それは父が寝るまで続きます。
静かな時は危険なサインでした。
父の攻撃が始まるかも知れない、そう予想し、身構えていました。
父からどんなことを言われるのか、予想し、答えを準備していました。
その時が来るまでジッと、幽霊のように静かに。
しかし大人の私が接する相手、コミュニケーションを取る相手というのは、父ではなく他人です。
雑談をしようと話かけた相手に対してあれこれ予想をつけ自分の答えを準備し、雑談だと分かった時にはどもってしまいます。
そんな時は自分が嫌になり、会話することが嫌になってしまいます。
何様のつもりで相手と向き合っているんだと自分を責め、恥ずかしくて消えてしまいたくなります。
大切なのは、真っ新な気持ちでいることかも知れません。
高校時代、美術館学という授業がありました。
芸術作品を観るための鑑賞の力を身に付けるものです。
作品を観る時に大切なことは、真っ新な気持ちで観ることでした。
作者がどんな想いで作ったのか、それを考えることも必要ですが、どんな想いで作ったのかにしろ、自分がその作品を観て何を感じるのか…そちらの方がずっと大切なことのように思いました。
人との会話もそうなのでしょう。
どもっても、言葉足らずでも、
相手のボールに対して一生懸命応えることが、
親密な関係を築くために必要なことで、それを相手がどのように受け取るにしろ、自分の想いや気持ち、意見を出すことが大切なのだと思います。