理想の親像を捨てる。
お久しぶりですね。
ずーっとブログを書きたいなぁと思いつつ、なかなか重い腰でした、苦笑。
今回の題は、「理想の親像を捨てる」。
AC(アダルトチルドレン)で無い方にも読んでいただきたいテーマです。
私は言葉の暴力を振るう過去(たまに現在)の父から、
逃げるように一人暮らしをしていました。
しかし会社の人間関係に疲れてしまい、休職し、退職し、部屋も引き払って(かなり粘りましたが、苦笑)
また実家に帰ってきて、
もうすぐ一年です。
帰りたくない家に帰って来てしまったなぁ、と
最初は思ったものです。
幾らか柔らかくなった父と、
モラハラから回復した母を目の前にしても、
子供の頃のトラウマは消えません。
いつ、
また、
父が暴れる日が来るかもしれない。
いじめられっ子のような母を目にする日が来るかもしれない。
毎日毎日思っています。
またそんな日が来るんじゃないか、と。
そして、
大人になった私は、「憎しみ」から
老いていく二人を殺めるかも知れないとさえ、
思ってしまう時があります。
しかし、
ようやく気付きました。
私は自分の両親に、「理想」を重ねようとしていたのだと。
どんなに家の中がめちゃくちゃになっても、
どんなに父の言葉のナイフが突き刺さろうとも、
どんなに母の小さな背中を見ようとも、
いつかその日が、
優しい父、
明るい母、
その二人の姿を目にする日が来るんじゃないかと
そう想い続けて来たことに気が付きました。
そして、
その理想像こそ、
捨てなければいけないと思いました。
親に理想を重ねれば重ねる程、
ACは辛い気持ちになります。
現実の親と、理想とが
あまりにもかけ離れているからです。
そしてそれをまた、自分のせいにしてしまうのではないでしょうか。
理想の親像を捨てるということは、
"親のために頑張らなければいけない"
"理想の子供でなければいけない"
という、
親への自分の理想像を捨てることでもあります。
なぜ捨てるのか。
それは、悲しくも無駄なことだからです。
ACで無く自分軸がしっかりしている人は、
自分の理想のために自分のために頑張ることが出来るでしょう。
しかし、長らく機能不全家庭で育ったACは、
理想の親と、その親に釣り合う子供でなくてはならないと頑張ってしまうのではないかと、私自身思います。つまりは親のために頑張ってしまうのです。
外の世界では、
他人のために頑張ってしまうことになるでしょう。
そしてそれはその "他人" が変わらない限り
無駄なことになってしまいます。
ですから、
捨てるのです。
では、捨てるとはどういうことなのか?
それは、
"どんな親であろうとも他人"
私はそう思うようにしました。
いえ、現在練習しています。苦笑
他人に対しては
"人は人、自分は自分"
…と、思いたい所ですが、自分軸が脆いがためになかなか難しいですね。
しかし、
どんな他人であれ、
「あ、こんな "他人" もいるんだな〜」
くらいに思っておけば、
たとえそれが親であっても、ヘトヘトになるほどに頑張る必要は無くなるはずです。
成人したACの最大の問題は、
自分軸の脆さです。
これについてはまた書こうと思いますが、
ACは自分という存在が気薄で、
あるいは空っぽなのかも知れません。