子供の質問

アダルトチルドレンと教えてもらい、それからの日々の事など。

人からの質問に「正解」はない。

前回の記事の最後に、私は二つの発見をしました。
この記事では「無難な回答」、それについてお話します。

心理士さんに尋ねられた時、
膝にクッションを抱えた状態がどうだったのか聞かれた時、
私はしばらく考え込んでしまいました。


"彼女はおそらくクッションの効果を聞きたいのだろう。ワクワクした表情をされている…せっかくクッションを準備して頂き試してくれたのだから、ここはクッションがあった方が良い、と答えるのが無難だろうか…でも私は特に効果は感じなかった。クッションが無い時とあまり変わらない。私にとって心理士さん、安心できる人と話すことにクッションの有無はあまり関係がない気がする…"

頭の中で上記のような考えが浮かんで、時間にすれば数秒ですが、沈黙が流れていたと思います。

結局私が心理士さんに伝えたのは
"あっても無くても"
という曖昧なもの。しかしこれが本心でした。

その後に、「クッションがあった方が良かった」…そう答えた方が無難だと最初に思ったことを心理士さんに伝えました。すると

「待って!
…無難かどうかは関係ない。それはあなたの意見じゃないでしょう?親しい人や好きな人には無難な答えじゃなくて、あなたの気持ちを伝えないと…確かに無難な答えを言った方がその場がまわる時もあるけどね。。」
そう呼び止められました。


"「自分を大切に」はACには響かない"
この記事でお話した通り、私はここでも相手のことを考えてしまっていたのです。

私に対しての質問に、"相手は何を私にして欲しいのだろう"と、自分の質問を被せてしまっていました。

その日私が探そうとしていたのは、「無難な答え」でした。言わば質問の「正解」あるいは「模範解答」でしょう。
自分の気持ちや意見ではなくて。


なぜ自分はそうなのか…
自分の気持ちや意見が言えないのか…
正解を探そうとしてしまうのか…
相手の気持ちや意見は、
一般的な意見は、と考えてしまうのか…

間違いなく普段の生活でも感じる私の生きづらさでした。人と接する時…多くは職場で感じることです。そして、私の中の大きな欲求不満の一つです。


無難な答えを述べた後に残るのは
(本当のところは〇〇だけど…)
というもの。

しかしどうでしょう。
人からの質問に答えなんてあるのでしょうか?
気持ちや意見に模範解答はあるのでしょうか?
そもそも相手は無難な答えや正解、模範解答を求めているのでしょうか?
クイズ番組でも無いのに…。

私が思い出すのはやはり父の姿です。
父は自分の仕事の成果をクイズ形式で家族に質問することがありました。

私が不正解すると
「だからお前はお母さんの子なんだよ」

見事正解すると
「さすがお父さんの子たい」

子供にとって理解出来ない称号を貰えるのです。
それはもらっても嬉しくも何ともないものです。
"よくわからない"意味不明なレッテルをはられるのですから。


しかし食卓の父の機嫌を損ねることは、自分だけでなく母や兄にも影響を与えることでした。

私は必死に父の望むことを考えます。
父が仕事で何をしたのか考えます。
普通の人はこうするだろうけど父はきっと違うだろう…
一生懸命父の仕事の成果を想像するのです。


おそらく、それが癖になってしまったのでしょう。
長らく父の出す質問…問題の答えを探すことに力を注いでしまっていたのです。


幸い、私には〇〇…本当のところの自分の気持ちや意見があります。
欲求不満ではありますが、確かに私は自分の気持ちを感じることが出来て、自分の意見を持つことが出来ているのです。

幸い…なぜ幸いなのかと言うと、
おそらく〇〇がなければ、それは本当に「自分がない人」になってしまうからです。

人に合わせすぎる自分に呆れるものの、
確かに私は自分を持っている…
自分の感情や考えがある…

そのような気づきがありました。
気付かせてくれた心理士さんには、本当に感謝です。

私がまず理解することは、相手からの質問に「正解」は無いということでしょう。
それはテストの問題ではなく、自分の気持ちや意見を伝える "チャンス" なのだと、そのように受け止める必要があると感じました。