生きるための、その解釈
2015.7.25
まずお話しておきたいのは、
今から性犯罪に遭ったことについて書いていきます。
書きたいのは…生々しい当時の光景ではなく、性犯罪に遭ったことについての私の、ヘンテコな解釈です。
昨日、心理士さんと会ってきました。
ブローチを見せたり、休職中どのように過ごしているかなど。そして、朝が辛くなったと話をしました。
心理士さんは "胸を張って腕を伸ばしてごらん" と、アドバイスをくれました。
私は…一言。
「胸を張るのが、怖いんです。」
性犯罪に遭った時、私はぽっちゃり体型で、特に鎖骨や胸周りはふくよかな身体つきをしていました。
性犯罪に遭ってからというもの、私はごく自然と、肩を上げ、腕を前にする癖が付きました。
高校に入って8キロ痩せ、特に上半身の変化が大きく、胸はぺったんこになりました。
胸を張ったって、それほど目立つものでは無くなり、しかし、胸を隠す癖というのは、取れません。
性犯罪に遭った人…その方々の苦しみとは、一人一人違うと思います。トラウマを克服出来た方もいるでしょう。私も、すっかり記憶から無くなっている時期もありました。
心理士さんは、それは…もっと怒りの感情が生まれてもいいと言います。
不思議なもので…私は犯人に対しての怒りというのは、ほとんど無いんですよ。むしろ、男性の性欲発散のために、自分が
"役に立てた"
そんな風に受け止めていたんです。
それについて心理士さんは、
"そう受け取るしか出来なかったのよ。
自分より弱い人間に目をつけて…!あなたは小さな子供だったのに…!"
心理士さんは力強く、とても頼もしく、そう話してくれました。
さっきまでブローチを見せて楽しく話していた私は…涙で前が見えなくなりました。
気付いたんですよ。
というか…つながったんです。
確かに "役に立てた" とも思ったし、被害に遭ったのが自分の大切な友達でなくて良かった、お習字教室で会う年下の子供達でなくて良かった…
そう思っていたんですが、やはり、
その時の両親の対応から生まれた「無価値観」だったんですよね。
自分には価値がない
愛される価値がない
心配される価値がない
"そんな自分でも犯人の役に立てた"
愚かな解釈だと思われるでしょう。
しかし…本当にそう思うことで前に進めたんですよ。
学校にも通えましたし、男友達とも男性の先生とも以前のように接せることが出来ました。
いくら自分が大人になり、性犯罪のニュースを見て怒りをおぼえることはあっても、自分が被害を受けたことに対しては怒りでなく、
"役に立てた "
それなんです。
おかしいですよね。ヘンテコな解釈をしています。
それでも、どんなに無価値観でいっぱいだった当時、
外でヘラヘラし続けた【ピエロ】
家で身体を傷付け続けた【ゴースト】
彼女たちが死なずに今の私が居るのは、生きているのは、誰かの役に立てたというヘンテコな解釈があって…なんです。
自分を愛する力が残っているなら人の為に使わなくては "いけない" …そう思ってしまうのも、その体験があるからなんです。
アダルトサバイバーの私が出来ることがあるならば、記憶を切り離すことでしょう。
性犯罪に遭ったこと。
性犯罪に遭った当時の両親の対応。
この2つを混ぜてしまうと、私はどうしても人の役に立つことが全てなのだという考えが生まれてしまうんでしょう。
犯人に対しては怒りを持ってもいいし、
両親に対してもまた別の怒りを持っていいのだということ。
【ゴースト】についての記事で書いた
「守ってあげられなくて、ごめんね」
このメッセージで、私は台所で泣き崩れてしまったんですよ。本当に…当時かけて欲しかった言葉だったんでしょう。
何度も何度も、言ってあげたいですね。
守られるべき存在だったのだと。
愛される価値のある子だったのだと。
ピエロの仮面を被らなくてもいいのだと。